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ニッサン・スカイラインについて(ジャーナリズムに意見しておきたいこと)③

プリンス自動車は、1966年(昭和41年)に日産自動車と合併します。これは、1960年代に入り、日本にも本格的なモータリゼーション時代が訪れ、自動車生産が飛躍的に増大したことが背景にあります。何と言っても、1963年に100万代を超えた生産台数は、1967年には314.6万台、西ドイツを抜いて世界第2位にまでなるのですから、その伸張ぶりは世界経済に与える影響も大きく、主としてアメリカからの完成車輸入自由化が求められることとなりました。歴史は繰り返す、という訳ですが、当時の通産省は輸入自由化に伴うショックを緩和するため、国内自動車業界の体質強化を計画、シェア2位の日産と4位のプリンス自動車の合併を誘導しました。プリンス自動車は、高級車を手がけ、立川飛行機以来の高い技術力が持ち味でしたが、販売が弱く、資金力に弱みがあったため、合併は日産に吸収されるような形で、プリンス自動車という名前は消え、販売会社に日産プリンス自動車販売が設立されることで当時は名前を残しましたが、この合併は、プリンス自動車側の社員にとってはプライドを傷つけられるものであった筈です。結果論は誰にでも言えることですが、私は、この合併は、日産自動車の側から見れば、桜井眞一郎氏、伊藤修礼氏らスカイラインの伝統を保ちつづける名エンジニア達という人的資産と技術力、スカイラインというブランド資産を手に入れるメリットがあった一方で、プリンスのスカイラインと日産のローレル、プリンスのグロリアと日産のセドリックというクラスが被るクルマのブランドを確立する点ではデメリット(同じクラスのクルマがあってわかりにくい)もあったと思います。

スカイラインというクルマから見ると、日産との合併は、2代目S5型プリンス・スカイラインの時代でした。
1964年発売のプリンス・スカイライン(右)と、1967年発売の日産・スカイライン(左)
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スカイラインというと、1964年の第2回日本グランプリで、スカイライン伝説を生んだ2000ccのS54GT-B型(写真右のGT-A型はシングルキャブ版)だけではなく、標準車の1500cc車のレーシング版ももの凄く活躍した訳です。1300cc~1600ccクラスの部門で、プリンス・スカイライン1500は1位~7位を独占。このレースに出場していた徳大寺有恒さんの駆るトヨタ・ワークスのコロナより1周10秒も速かったというのですから、桜井眞一郎氏らのプリンス自動車エンジニア陣のプライドは相当高かったと思います。
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それが日産自動車に吸収合併され、67年にスカイラインをマイナーチェンジした際には、その発表は日産プリンス販売のディーラで行ったというのですから、さぞかし悔しかったでしょう。プリンス族はそこに集まるしかなかったのだから。

ニッサン・スカイラインになって、エンジンフードに「nissan」のロゴが入りました。
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でもフード先端の「P」のデザインのようなエンブレムはプリンス時代からそのままです。この辺りに、日産の配慮、プリンスのプライドが伺えます。
それにしても右側にも見えるプリンス・スカイラインの端正な4ドアセダンのスタイルの上品なこと。70年代のメルセデス・Sクラスに通じるものがあります。
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前述したように、日産とプリンスの合併は、セドリックとグロリア、ローレルとスカイラインという両者の主力車種の統合再編に繋がってしまいます。私は、この点が今から見れば日産がそれぞれのクルマのブランド構築という点では二重の負担になり、ブランドの持つ価値を活かしきれなかったと思う点が残念です。
例えば、この、プリンス・グロリアなどその典型です。
初代グロリアは、今上天皇陛下が皇太子(プリンス)の時代に、殿下のご成婚に因んだ「栄光=グロリア」の名で発売され、殿下ご自身もご愛用されたという「究極のブランド」品であった筈です。
2代目のこのモデルも、アメリカ車ばりの洒落たデザインをまとって、ラジエータグリルに輝く「Prince」の文字も誇らしく、いかにも高級車という雰囲気に溢れています。
(2代目・プリンス・グロリア)
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ラジエーターグリルに輝く「Prinnce」の金文字、センターにはPのエンブレム
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グロリアは、初代の時代から、リアアクスルに、戦前から欧州車が用い、70年代にはアルファロメオが採用していた高度な高級サスペンション、ド・ディオンアクスルを搭載していました。貨物車などに見られる丈夫なリーフリジッドがほとんどだった当時の日本では、これは異次元とも言える構造だった訳です。構造は複雑でも乗り心地が良いメリットがありました。
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そして、当時の日産・セドリックは、プリンスグロリアと比べると、落ち着きはあるものの、スタイルも同じアメリカ流とはいってもグロリアが瀟洒な感じに対してよく言えば重厚、悪く言えば少し保守的に過ぎるような印象もあります。リアサスペンションも、こちらはコンベンションナルなリーフリジッドで、プリンスから見ればやや旧いという感じがあったのではないでしょうか。
(日産・初代セドリック1900)
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そして、合併後の67年に登場した日産・グロリアは、プリンス時代に開発が始められたため、縦目の特徴あるロイヤルスタイル(プリンス自動車がデザインした御料車のデザインに因みます)はセドリックとは別ではあったものの、開発中の合併劇に伴ってセドリックとの部品共有化が進められ、初代からの特徴だった乗り心地重視のド・ディオンアクスルが廃止され、セドリックと共用のリーフリジッドになってしまった点は、個性的なブランドの差別化という点では明らかにマイナスでした。
そしてこれ以降、輝かしい伝統のあるグロリアは、セドリックの単なるバッジエンジニアリングの兄弟車になり、結局ブランド廃止になってしまいました。名前の由来を振り返ればお分かりいただけるように、日産は、この点ではかなり勿体ないことをしたと思います。

(3代目グロリア)
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そして何より、今回取り上げたスカイラインにとって、やっかいだったのは日産の主力車で、クラスが被るローレルや、日産の看板車種であるブルーバードとの性格を分けることだったと思います。この点については次回。

by bjiman | 2017-02-28 05:00 | CAR | Comments(0)

ニッサン・スカイラインについて(ジャーナリズムに意見しておきたいこと)②

フランスの哲学者、ロラン・バルトは、「作者の死」の中で、「作品は様々なものが引用された織物のようなもの」で、「作者であっても何らかの影響を受けている」のであり、「作者は作品を支配することはできず、その解釈は、読者にゆだねられるもの」だと言いました。
なるほどこの説はクルマにもあてはまるところがあって、作者=設計者が、どんな意図をもって設計していたとしても、読者=消費者の共感を呼ばなければクルマは売れませんし、結局、クルマという商品の評価は読者=消費者の評価にゆだねられるものだからです。特にスカイラインのように、長い間多くのファンによって愛され、ブランドを築いてきたクルマが、「スカイラインらしい」のか「スカイラインらしくない」のかは、結局は、ユーザーの評価次第だと思います。
一方、ジャーナリズムが、設計者にその設計意図を聞くことなく、独自の解釈をすることは、また別だと思います。


(私は結構好きなデザイン。現行型ニッサン・スカイラインV37型)
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私が、ニッサンスカイラインについて書いたのも、年末に掲載されていたスカイラインV35型の論評に、
「これまでスカイラインというクルマが作り続けてきた思いや伝統を微塵も感じさせない」
「このでぶなクルマに、スカイラインと名づけることに反対意見はなかったのだろうか。」
「いや、あったに違いない、ゴーン勢力に押し切られてしまったのだろう。」
と書かれていたことがきっかけです。

取材もせず、一方的な立場で決めつける。

最近の自動車ジャーナリストにちらちら見えるこんな姿勢は、私は自動車評論が落ちてはいけないポイントだと思います。
自動車ジャーナリズムに限らず、ジャーナリズムに係わる人達は、「戦前の大本営発表になってはいけない」、ということは意識の根底にある筈です。
大本営発表の何がいけなかったのか。辞典を引くと、「戦況が悪化しているのに、優勢であるかのような虚偽の発表を繰り返した」とあります。
ミッドウェイ海戦の時、昭和17年6月に行われたこの海戦は、日本が虎の子の主戦航空母艦4艦を一気に失うという大被害を受け、敗戦につながるきっかけになったものであるにも係わらず、大本営はこの事実を秘匿し、「航空母艦1隻沈没、1隻大破」と改竄して発表しました。鉛筆を舐める分には4→1に過ぎない小さな数字の文字であっても、実態は大きく異なります。記者は現場にいって確かめることができず、発表をそのまま報道するしかなかった。正しい情報が伝えられず、その後の悲劇に繋がりました。だからいけないのでしょう。
バルトが指摘しなくたって、ユーザーは、作者の意図とは無関係に色んな解釈をします。「スカイラインらしい」とか「らしくない」とか。
自動車ジャーナリズムというプロの書き手の評論は、これと同じステージでは駄目なんです。個人の感想など聞いてない。実際にどうだったのか聞いてきて、識者の意見やデータを踏まえつつ、自分なりの解釈を説明する。その時に、はじめて評論としての価値が生まれるんだと思います。
大事なことは、「客観的な事実を伝える」ということだと思います。自動車ジャーナリズムには「聞く」という動作が必須だと思うのです。

○米国で成功したスカイラインの再編成
この表は、昨年、2016年の年間販売データ。米国での乗用車販売ランキングです。
昨年、米国の乗用車販売ランキングでは、一般の乗用車部門で、ニッサン・ティアナ(米国名アルティマ)が5位、プレミアムカー部門(レクサス、ベンツ、リンカーンなどのプレミアムブランド15社が発売する全ラインナップのランキング。表ではセダンのみ抜粋)でも、インフィニティ・Q50(日本名ニッサンスカイライン)がセダンでは5位にランクインしました。プレミアムカー全車の順位で見ても14位で、ライバルのレクサスとの比較ではGSよりもISよりも上に行っています。レクサスは、米国では何といってもESがセダンの初めの頃からの稼ぎ頭です。こういうことは日本のジャーナリズムではまず議論してくれません。
ティアナとスカイラインは、元はと言えば、プリンス自動車のスカイラインと、ニッサン自動車のローレルが、紆余曲折を経ながら変遷してきた後継車です。私は、レクサスの2016年結果を検証(笑)している時に偶然この事実を知り、迷走に迷走を重ねたニッサンのLクラスセダンの再編が、米国では「成功」と言ってもいいんじゃないかと感慨深い思いで見ていました。
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(米国乗用車部門で、1位と5位のトヨタ・カムリとニッサン・アルティマ(ティアナ)@ハワイにて)
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私が気になった自動車ジャーナリストは、スカイラインV35に対して、「これまでスカイラインというクルマが作り続けてきた思いや伝統を微塵も感じさせない」と書いていました。ではお聞きしたいのですが、スカイラインの伝統とは何でしょうか。

「プリンス」から始まったスカイライン
クルマ好きの方なら誰でもご存じのように、スカイラインはもともとはニッサンのクルマではなく、「プリンス自動車」という会社が作ったものです。プリンス自動車は、戦前は、戦闘機の名機と言われる「隼」を設計した立川飛行機のエンジニア達が立ち上げた自動車メーカで、「プリンス自動車」の社名は、1952年(昭和27年)の今上天皇の立太子礼に因みます。

(スカイライン伝説を作った、初代スカイラインGT(写真はシングルキャブのS54A型)と、そのグリルにカッコ良くあしらわれた、プリンス自動車の「P」) @昭和記念公園 SIGMA DP1 Merrill
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初代スカイラインは、今上天皇の皇太子殿下時代の愛車だったことでも有名です。2014年に亡くなられた自動車評論家の徳大寺さんは、この初代スカイラインを運転している時の殿下と路上ですれ違ったことがあると著書で何度か触れています。そしてスカイラインは、1958年(昭和33年)10月に、プリンス・スカイライン1900としてモーターショーで発表されたモデルが、翌年の1959年に「プリンス・グロリア」として発売されますが、グロリア(栄光・光栄)という車名は、この年に皇太子殿下がご成婚されたことに因みます。このモデルも殿下に納入されたとのことで、グロリアやスカイライン、特にスカイラインは、プリンス自動車にとって大切な名前として扱われていきます。

(プリンス・グロリア。スカイライン2000GTには、このグロリア用の6気筒エンジンが移入された。)
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「スカイライン伝説」は、1964年に開催された第2回日本グランプリから始まったということは前回書いた通りです。これはニッサン自身がそのように説明しています。
そのスカイラインの基礎をなしたモデルは、1963年11月に登場し、後で、上の写真の初代GTのベース車となる二代目プリンス・スカイライン1500でしょう。

プリンス・スカイライン1500(S5型) 1963年~ @昭和記念公園 SIGMA DP1 Merrill
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プリンス自動車は、メーカーとしては後発だったので、ニッチな高級車マーケットをターゲットしていました。プリンス・グロリア(後のニッサン・グロリア)初代スカイラインのバリエーションのような形でデビューすることになりますが、スカイライン2代目のS5型は、グロリアとは分けられ、日本にもモータリゼーションの波が来て、一般の消費者にクルマが売れ始めた時代であった1963年末のデビューなので、プリンス自動車としては小型で、1500cc車として設計されたのです。

(高級感のあるスカイライン1500のグリルとPをあしらったエンブレム)
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1964年の第2回日本グランプリの開催前に、トヨタ・ワークスドライバーの式場荘吉さんが、ポルシェ904を個人輸入して出場してくるというニュースを前に、プリンス開発陣は、これに対抗するために、レースカーを仕立てます。レースに出場するためには100台生産車を生産している必要がありましたから、プリンス開発陣は急ピッチでこれを進める必要があり、スカイライン1500のエンジンルーム、ホイールベースを20cm延長してグロリア用の2000ccエンジンを突っ込むという、言葉は悪いですが少し安直な方法がと取られました。この開発を指揮したプリンス自動車のエンジニアが、後で有名になる桜井眞一郎氏で、今日まで続く、「スカイラインGT」の誕生のエピソードです。写真で比較していただくとわかりやすいと思いますが、20cm長いフロント部分が分かると思います。
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こちらが、1500ccの標準車。エンジン部分が短い。
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だから、最初、スカイラインというクルマは、1500ccクラスのクルマとしてバランスするように設計されたのに、2000GTで大成功を収めてしまった。しかも、ニッサンと合併してからの「初代スカイラインGT-R」では、今度はツーリングカーレースでの戦闘力を高めるために、ホイールベースを切り詰めて2ドアセダンにしてしまった。
フロントは直列6気筒エンジンで長く、後ろは、2ドアでショートホイールベースで切り詰めたのでは、トレードオフとなるのはキャビンスペースです。
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このように、スカイラインの歴史は、高級4ドアセダンとして始まり、伝説となったレースでの戦闘力のために、ショートホイールベースに→キャビンスペースが不足するのでボディを拡大→売れなくなり、またボディをショートに、の繰り返しになります。これは、最初のスカイライン伝説の時に4ドアセダンでありながら、本格的なスポーツカーのポルシェを抜いた、まさにあの瞬間に決まったスカイラインの宿命だったのかなと思います。
続きは次回。ニッサンとプリンスの合併を絡めて、現在のスカイラインの再編成を好ましく思ったというところにつなげていきます。

by bjiman | 2017-02-20 06:00 | CAR | Comments(0)

ニッサン・スカイラインについて(ジャーナリズムに意見しておきたいこと)

既に時間が経ってしまいましたが、年末、V6になった初めてのスカイライン、V35型に対する批判記事が目に留まりました。著名な女性の自動車ジャーナリストのもので、V35型スカイラインは「でぶ」で「スカイラインの名前の伝統や思いを微塵も感じさせない」というのです。このような記事に対していちいち反論を書くことは意味がないと思っているのですが、この記事には日頃私が感じている、ジャーナリズムが落ちてはいけないと思うことがいくつかあります。そのことを書くのにちょうどいい記事でしたので、これを題材にして書いてみたいと思います。
私が免許を取った当時、スカイラインは形式名の最初にRが来る最初の型、R3Oでした。この型は、CMのキャラクター(ポール・ニューマンさん)から「ニューマン・スカイライン」あるいは、FJ20エンジンを搭載したRSのフロントフェイスを形容した「鉄仮面」と呼ばれたモデル。小樽の石原裕次郎記念館に行った時に、RSの西部警察バージョンが展示されていたので思わず写真を撮りました。

スカイラインRS (DR30) 西部警察バージョン (SIGMA DP1 Merrill)
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スカイラインの象徴といえば、「GT」の名前、直列6気筒2,000ccエンジン、そして、サーフィンラインとか、4灯丸目のフェラーリのようなリアテールランプ、何より「GT-R」というレースを感じさせるボディタイプ、でしょうか。
でも、このR30タイプにしても、イメージリーダーは直列6気筒の「GT」ではなく、DOHCエンジンを復活させたFJ20Eを搭載した「RS」の方でしたし、鉄仮面スカイラインにはサーフィンラインもありません。スカイラインという名前が想起させるイメージは、「レース」という共通のものがあるものの、ディティールは当然時代の事情、ニーズに合わせて変化しているのです。
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私が免許を取った当時のスカイラインは上記のRSの時代でしたが、現役で路上を走っていたスカイラインはまだまだ「ジャパン」も多かったので、私はスカイラインというとジャパンのイメージが強いのですが、もちろん「教科書」(専門書)などでお勉強したスカイラインは、60年代のプリンス・スカイラインS54Bの輝かしいレース史です。4気筒1,500ccが標準だったプリンス・スカイラインのエンジンルームにプリンス・グロリア用の6気筒2,000ccエンジン(当時はまだOHC)を突っ込むためにホイールベースとフロント部分を延長するという手法は何とも荒々しささえ感じさせるチャレンジングであり、プリンス自動車のエンジニア・桜井眞一郎氏を有名にしました。ライブで体感できない60年代の話でも、本を読みながら興奮したものです。そして、スカイラインのレーシィなイメージとは、そのプリンス自動車を吸収合併したニッサン自身が作成した以下ビデオに語られているとおり、1964年に開催された第2回日本グランプリにおけるスカイラインGT対ポルシェ904の闘いによって形成されたものというのは、我々世代のクルマ好きなら誰でも知っていることだと思います。本格的ミッドシップスポーツカーのポルシェ904と所詮は乗用車ベースのスカイラインGTが闘っても勝負は分かっていること。スカイラインをドライブした生沢徹さんとポルシェ904をドライブした式場壮吉さんは、後に著名な自動車評論家となる徳大寺有恒さんたちも含めて若い頃からの友達同士で、生沢さんが事前に冗談で、1周でもいいから前を走らせてくれと言っていたこと、実際にレースで偶然、式場ポルシェが遅い前のクルマに引っかかったところを生沢スカイラインが前に出たので、その時に、式場さんが、そういうえば1周だけでも、、、の話を思い出して1周だけ様子を見たこと、、、これはご本人同士が認める、偶然が演出したできごとですが、判官贔屓もあって、圧倒的に不利なシチュエーションでありながら1周だけ前に出て大観衆の前を先頭で走ったスカイラインは熱狂を呼んで名を上げたのです。翌日のスポーツ新聞の見出しには「泣くなスカイライン」という文字が躍ったとか。時代の雰囲気を感じさせます。

そしてスカイラインの歴史の中でも燦然と輝くのが、ニッサンとなってからの新型スカイライン、GC10型。とりわけDOHCエンジンのS20型を搭載した、初代GT-Rでしょう。4ドアで始まったGT-Rですが、ツーリングカーレースでの戦闘力を保つため、途中でホイールベースを短縮した2ドア仕様のGT-RにスイッチされたKPGC10は、最終的にツーリングカーレース49連勝という金字塔を打ち立て、スカイラインの中で最も有名な型だと思います。少なくとも私の中では。
スカイラインGT-R KPGC10型 @TOYOTA MEGAWEB (DP1 Merrill)
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リアタイヤハウスの周りにある上下のラインが、スカイラインならではの「サーフィンライン」
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しかしS2Oのような純粋にレーシングエンジンとして開発されたものをデチューンして搭載したGT-Rは当然高価であり、1969年で154万円という価格はサラリーマンにとっては高嶺の花。ですが、この49連勝の活躍が、スカイライン伝説を一層輝かせ、スカイラインの一般車の販売を押し上げていきます。スカイラインの歴代販売台数を見ると、スカイラインというクルマがどういうものだったのか、その一端が分かると思います。
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スカイラインは、2代S54Bの時代、第2回日本グランプリ(64年開催)で名を上げ、販売台数が11万台に一気に増加、3代GC10時代(68年~)、GT-Rのツーリングカーレース49連勝の金字塔で3倍の31万台、続くC110型、通称ケンメリと言われる、ケンとメリーの「愛のスカイライン」の時代('72年~)に歴代最高となる67万台を売り上げています。

ケンメリの時代、GT-Rは作られたものの、第一次オイルショックが1973年、狂乱物価と言われたのが1974年です。排出ガス規制の影響もあって、ケンメリGT-Rは197台しか作られず、レースにも出場しませんでした。
時代が省エネ時代に変わって、脚光を浴びたのは小型の省燃費車です。その代表格がホンダ・シビックでしょう。バズが「愛と風のように」でケンメリの愛のスカイラインを歌ってから4年経ち、それに変わって、当時の時代の寵児だった吉田拓郎が「僕の車」という曲の中で、「僕の車は待っている、ホンダシビック~」と歌ったのが76年。スカイラインはそういう空気感の中で歴代最高となる67万台を売り上げはしたものの、時代の雰囲気はすっかり変わっていったでしょう。スカイラインの販売台数が落ち始めるのが1977年発売のジャパンからというのは、この間の空気感の変遷とリンクしていると思います。私の敬愛する白洲次郎さんは、この頃、ホンダシビックや三菱ミラージュを愛用し、助手席に乗るというスタイルを取り、黒塗りの大型車の後部座席に乗る経営者達を皮肉っていました。そういう時代の雰囲気だったんだろうと思います。

その後、スカイラインは一定の支持がある人気車ではあったものの、結局R34でR型スカイライン、つまり直列6気筒のスカイラインが終わるまで一度も販売成績が上向いたことはありません。あの名車と言われるR32ですら、健闘したものの、トヨタ・マークⅡ3兄弟に端を発する「ハイソカーブーム」の流れの中で大型化した「セブンス」、それこそ当時「らしくない」と言われた「7代・都市工学スカイライン」の販売台数を上回ってはいないのです。要因はいろいろあるでしょうが、クルマは商品で、ユーザーの支持がなければ「ニーズが変わっている」と思うしかないこともあります。スカイラインの歴史はそれでなくても快適性のための大型化と贅肉をそそぎ落とすための小型化の繰り返しでもあり、ユーザーの年齢の高齢化でもあったと思うのです。続きは、次回。私はV35型スカイラインが気に入っていたという立場から、自動車ジャーナリズムが落ちてはいけないと思う視点について、具体的に書いてみたいと思います。

by bjiman | 2017-02-12 13:00 | CAR | Comments(4)

かねき ~流山のちょっといいお店~

流山市は、松戸市のお隣。江戸川に沿って続くこの地域は、江戸時代から水運のご縁を今に残す、江戸情緒を感じさせて好きな町です。
そんな流山の中心、流山駅の近くにある京料理のお店「京料理 かねき」は、とても上品な京懐石の味を伝えてくれる素敵な場所です。

先週の日曜日、母の誕生日祝いということで、かねきさんの京懐石をいただきに伺いました。 (SIGMA DP1 Merrill)
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松戸、流山の辺りは、明治時代は東葛飾郡として同じ区画区分で、かつては東葛支庁という県庁の施設もありました。「トーカツ」は馴染みのあるエリア名で、クルマのナンバーを決めるときにも「東葛」が有力候補に挙がりました。そんなトーカツエリア、江戸情緒が感じられるお店はいくつか思い浮かぶものの、こういう上品なお店はなかなかありません。
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節分の時期でしたので、豆まきがフューチャーされています。
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落ち着きのある、和の空間。この日はテーブル席で。
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この日は、お昼のミニ懐石。最初は、ぶり大根。
素晴らしい大根の素敵な色合い。崩れないギリギリの加減。それでいてお箸をいれるとすっと切れる。プロの仕事です。
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京料理らしい九条ネギがキレイ。
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大根には、ブリの味がギュッとしみています。ブリの姿はお皿にはありませんが、口に含むとブリの姿が浮かび上がってくるという何とも味わいのある大根です。
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タコやふぐの煮こごりなど、小さな逸品たちが並んでいます。見た目も美しく、日本ならではの上品なお皿。
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ふぐの煮こごり。ふぐの美味しさが煮こごりの中にギュッと濃縮されていて素晴らしい。
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右上の小さな器。お豆を食べると、中からお多福のお顔。かわいらしいですね。日本の食文化って特徴がありますね。
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天井を見上げると、本物の網代です。
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お刺身。本マグロの赤身と、かぶらに鯛を包んだもの。
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この本マグロ、とても身が甘くて、ノリと山芋とあわさった美味しさのハーモニーを感じさせてくれました。
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かぶらで鯛を包んだもの。こちらは、手前の塩昆布と一緒にいただきます。
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かぶら蒸し。中は百合根とサワラが入っていました。
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マスの幽庵焼き。マスならではの身の美味しさが幽庵焼きの味噌味と相まってしっかりした味。このお皿、まるで一枚の絵のようだと思ってしまう日本料理の美、日本の器の美があります。
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白子の揚げ物(雲子)。揚げにはかき餅があわされていて、モチモチした食感を感じさせます。昨年もこの時期にいただいたので、このお店の定番なのかな。
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お食事。タコの刻みが入ったタコご飯。(タコライスじゃない(笑))。タコの煮出汁で炊き込んだのか、タコの味が浸みた風味があるご飯。
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赤だしのお味噌汁。普段、そんなにいただくものではないので、思わず母も、「赤だしって美味しいわね。」
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デザート。最初にちょこんと、器に載っている、にんじんのカステラ。レイアウトがホントにキレイ。
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にんじんの甘さ、ふわっとしたバターの甘さ、和洋風なんです。
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フタを開けると、中は手作りの黒蜜、きな粉と、それにくるまれたわらび餅。
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爽やかな甘さ、後味のすっきりした甘み。フレンチのデザートもいいけれど、和のデザートっていいものです。
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素敵な立春の一日。これからいい春の日が来ますように。
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私たちの心の中に、家のそこかしこに、こうした和のテイストを残したい。私はそう思っています。
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外に出ると頬をさする風はひんやりを冷たいけど、そんな空気の中を山形から持ってこられたという早咲きの桜が、一足早い春を演出していました。
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流山 京料理かねき。 私のお気に入りです。
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駐車場のスペースにピッタリ。レクサスHSは、日本にジャストサイズのセダンです。
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2017.2.5 @流山 京料理 かねきにて
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by bjiman | 2017-02-11 13:14 | おいしい幸せ | Comments(0)

男着物④読谷山ミンサー、博多織(献上)

年末、年始にかけては、デパート等のセールがよくある時期です。そんなセールで最近揃えた帯を取り上げてみたいと思います。

○読谷山ミンサー
 読谷山(ゆんたんざ、よみたんざん)ミンサーは、沖縄県読谷村で織られる綿織物で、経済産業大臣指定の伝統的工芸品。女性の帯だけではなく、男性の角帯もあります。
 ミンサーの「ミン」は木綿、「サー」は狭い、を表し、細帯という意味で用いられるそうです。読谷村のミンサーはグーシバナという竹串を使って紋を織る東南アジアの影響が強い技法なのだとか。一度は途絶えてしまった伝統ですが、地域の高齢者達によって復活され、最近では嬉しいことに売れ行きも好調なんだとか。伝統工芸品を巡っては価格と普及の問題がついてまわることが多いものですが、何と言っても「商品として売れる」、「魅力を感じて買う、支える」という熱気と熱気がつながれていくことがとても大事だと思っています。
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いろんな証紙がいっぱい付いています。せっかく買うなら証紙のついた本物を買いたいですね。
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先染めの絣で文様が織られています。なかなかにかわいらしいですよね。綿の帯なので、綿の着物や、ちょっといい浴衣に合わせてもいいかなと思っています。
下においている赤い柄のものは、最近仕事で那覇に行った時にツマに買ったミンサー柄のストールです。こちらも手触りの良い、いいお土産でした。
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那覇空港で、お手軽なミンサー柄のバッグも買いました。綿の着物で出かけるときなど用に。
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さて、こちらは近くの百貨店での冬のセールで買った博多織の角帯。博多織はオーソドックスですが、正絹の角帯として男着物には欠かせない、使いやすい帯だと思います。私も角帯は博多織をいちばん多く使うので、数も揃ってきました。
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博多織の特徴のひとつである華皿(はなざら)という仏具をモチーフに図案化した柄と縞にオレンジ色のポイントが入っています。オーソドックスな紺地ですし、着る着物を選ばない、合わせやすそうな帯です。これは活躍しそうな気がしました。
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博多織は、表裏両面で使えるのが特徴。裏もシンプルな縞柄で、たまにはこちらを表に出して締めてもいいのです。
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博多織の証紙はこういうところについています。この証紙は金色のもので、絹50%以上のものに貼られます。この帯はもちろん絹100%です。証紙の内容についてはこちら
をごらんください。
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ところで、経済産業大臣指定の伝統的工芸品である博多織といえば何と言っても「献上」と呼ばれる文様のものが代表格です。
「献上」は、大河ドラマでも取り上げられた黒田官兵衛の息子、黒田長政が幕府に毎年、この柄のものを献上したことが由来ですが、定格なのが、「独鈷」(どっこ)と「華皿」(はなざら)、中間に縞を配するというデザイン。縞も、まん中に太い線がある「両子持」(りょうこもち)と上下に太い線がある「中子持」(なかこもち)があるのが特徴。この全てが揃っているのが献上で、私の持っているものだと、これがそうです。涼やかな銀と白の組み合わせなので初夏に使っているものです。
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献上の柄については、こちらをご参照いただければと思いますが、私のこの帯の場合、上から中子持、華皿、両子持、独鈷、中子持の順に並んでいます。
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グローバル社会であるからこそ、地域の特色を活かした産業は不可欠であると思います。また、外国から見た日本らしさ、という点でも伝統や文化が大切だと思います。
こうした伝統工芸品は積極的に実用に使ってこそ、今日に生きてくると思うのです。そして、外国の方から聞かれたときに、きちんと説明できる自分でありたいと思っています。

by bjiman | 2017-02-03 00:51 | 和装・着物生活・伝統的工芸品 | Comments(0)