カテゴリ:北海道日記(余市町)( 5 )

旧下ヨイチ運上家(北海道余市町)~現存する唯一の松前藩時代の遺構~

運上家(うんじょうや)とは、江戸時代、松前藩がアイヌ民族との交易を行う場所を藩に代わって民間の商人が請け負う形で建築し、経営する拠点施設です。
こうした運上家は道内に十数カ所あったといわれますが、「旧下ヨイチ運上家」 は、現存する唯一の運上家で、松前藩の蝦夷地支配の遺構として、昭和46年に建物が重要文化財に、一帯の敷地は昭和48年に国の史跡に指定されました。
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松前藩は、農業生産による収入が少なかったため、アイヌの産物と本州からの物資との交換により収入を得ていました。最初は直接交易を行ってみたものの役人故か経営がうまくいかず、次第に経営は商人に委ねられるようになり、藩は場所請負の上納金を収入とするようになったそうです。この上納金を運上金ということから、運上屋と呼ばれるようになったようです。
場内には、当時の役人の姿が人形でリアルに再現されています。
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「遠山の金さん」のお父さんが滞在されたことがあるそうです。その様子が再現されています。挨拶しているのはここの経営者でしょうか。
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庭園が整備されているところなど、幕府の建物の趣味なのかな、とか思ったり。嘉永6年(1853)に改築した当時の古図面を基に復元したものだそうです。建物全体もそうなんですが、幕府の建物という関係上、鰊御殿と違って華美な装飾などは一切なく、質素な感じです。
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帳場。そろばんを弾いているのはここを経営する商人の番頭さんでしょうか。
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漁師の人形も。運上屋は交易による収入を得る場所だったものの、次第に自ら大規模漁業を営むようになり、明治時代になってから運上屋の場所請負制度そのものが廃止されたため、次第に番屋や旅籠に姿を変え、消滅していったそうです。
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運上屋の周囲には、大小様々な鰊番屋があったそうです。運上屋前の道を挟んだ反対側に、そんな鰊番屋のひとつが残っており、お休み処として営業しています。
(ちなみに、建物の左側に転がっている2つの大鍋のようなもの、これがニシン粕を作るときに使う鰊を煮る大鍋です。鰊御殿が寂れ、ニシン粕作りをしなくなってから、この鍋が大量に余り、使い途がないということで、家庭では、これを五右衛門風呂として使っていたそうです。)
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質素な中にも、どこか上品な佇まいを感じさせる室内の設えです。
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アンティークな方位磁石や時計。
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鰊の三平汁をいただきました。恐らく、鰊御殿華やかりし当時の漁夫達が食べていたのは、こんなお汁だったのでしょう。
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味付けはシンプルな塩味。懐かしくもおいしい味でした。
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子どもと相撲を取っているのは、、、なんとヒグマの子熊。もちろんヒモで繋がれてはいるものの、現代では考えられない光景ですね。
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 2008.9.24 余市町にて
 PENTAX K10D
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by bjiman | 2010-10-04 01:41 | 北海道日記(余市町) | Comments(8)

旧余市・福原漁場③~夢ようもう一度、ニシン群来再来に思いを馳せて~

旧余市・福原漁場特集も3日目。今日は漁場全体の施設を見ていきたいと思います。
    はじめに「土庫(文書庫)」から。
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    土庫の入口。一見家屋に見えるような、大変凝った作りです。
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    重要文書や衣類を収納していたというこの文書庫。3層構造の見事なものです。
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このような建物が、そのままの姿で残ったこと自体、当時の建築水準の高さ、生活ぶりや歴史を後世に伝える上で非常に貴重であり、感謝すべきことだと思いました。何という美しさだろうと感嘆します。
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    肥料となるニシン粕や身欠き鰊などの製品を保管していたという石倉。
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    内部は、ニシン漁の漁具や写真など、ニシン漁に纏わる豊富な展示があります。
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ニシン漁は、春になり、産卵期を迎えたニシンが大群で浅瀬に押し寄せる習性から始まったもので、大群で押し寄せたニシンの産卵により海が乳白色に染まることを群来(くき)といいますが、群来が来て漁が行われた後の浜は、おびただしいニシンの山が築かれます。
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    内側から見た主屋。それでは、運び込まれたニシンの作業の様子を見ていきたいと思います。
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当時の姿を描いた絵。主屋の前はすぐ海で浜が広がっていたことや土庫の外壁はこの絵の当時は白壁が出ていたことなどが分かります。中央付近では、ニシン粕を作っている作業の様子が描かれています。
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この作業が、ここで行われていました。
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この柵(納屋場)に、干しきれない程のニシンが次々に干されていったのでしょう。
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納屋場場と米・味噌倉。米・味噌倉は、側面に4つ入り口があり、こういう倉は珍しいとのことで「日本の倉100選」に選ばれているそうです。(この写真のみトリミングしています。)
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米・味噌倉の内部。外壁と内壁の間に石を詰め、ネズミの侵入を防いでいたそうです。
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漁夫達雇用者に食べさせる分だけでも大変な量だったでしょうね。
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網倉には、当時の漁具が展示されています。
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明治22年の版画。既に現在保存されている状態ときわめて近い感じです。明治22年にこんな姿だったなんて、、、驚くばかり。この版画では、土庫は上の絵と違い、壁が2階途中まで現在のように木でサイディングしてあります。
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江戸時代に端を発し、明治~大正年間に栄華を極めたニシン漁は、昭和に入ると漁獲量が減少し、昭和30年を最後に忽然と途絶状態になりました。漁獲が途絶えた原因は捕りすぎや海流など様々な要因が指摘されるものの正確には分かっていません。アラスカやカナダ、アメリカ、ロシアから輸入した鰊を加工する時代が長く続く一方で、平成に入り、「夢よもう一度」と日本近海におけるニシンの養殖~放流が行われるようになり、その成果か、平成11年に留萌海岸で45年ぶりの群来が見られました。その後、10年振りに、平成20年、平成21年にも連続して大規模な群来が見られており、小樽沿岸の漁業関係者は沸き立っています。かつての種類とは少し異なり、やや小型のニシンということですが、お陰で、近頃関東でも北海道産のニシンを見かけることが多くなりました。私は札幌で初めて回転寿司でニシンのお寿司を食べましたが、生ニシンは、かつての身欠き鰊の時代のイメージと違い、もともと油の多い魚ですので、トロッとしてとても美味しいものです。
かつて、明治時代には、漁獲された鰊の7割近くは肥料として加工され、身欠き鰊として京都などへ輸送され食べられたものは1割程度に過ぎませんでした。しかし戦後昭和20年台には、鰊かす(肥料)は3割以下に落ち込み、身欠き鰊としての利用が4割近くまで増えていました(展示資料による。)今では加工技術、輸送技術の発達により、生食など利用方法も広がっていると思います。
 群来の時代、再び-小樽、日本海沿岸の鰊漁関係者達は、いま熱い視線をまた来る春に向けています。私も鰊御殿ファンの一人として、群来の動向に期待しています。

 以上、福原漁場編を終わります。

 2008.9.24 余市町にて
 PENTAX K10D
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by bjiman | 2010-10-03 01:01 | 北海道日記(余市町) | Comments(8)

旧余市・福原漁場②~主屋特集~

今日は、旧余市・福原漁場の様子を詳しく見ていきたいと思います。
     まず、主屋へどうぞ。
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     どの鰊御殿も共通ですが、入ってすぐ中央は、漁夫達の食事処(漁夫溜まり)になっています。
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     漁夫達の寝床は2階に。
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     「かまどと炊事。」
 コメを炊くつば釜と汁用の釜が2個並べて備え付けられています。つまりご飯のメニューは、米と汁だけ。汁は、ニシンを入れたすまし汁のような質素なもの(のちほど、別の機会に実際に食べたものをアップします。)だったようです。ニシン漁の最盛期には1日3~5回の食事をしたとか。このつば釜は、一度に一斗四升(約20kg)の米を炊くことができるそうです。(我が家の電気炊飯器は3合炊きです(笑))
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     「沖弁当」
 漁夫達が船に持ち込むお弁当セットです。食器、おかず、ご飯が三段重ねになっていてかわいらしいですね。
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 お台所。様々な形の酒徳利や酢徳利が、今見るととてもお洒落です。
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ちなみに、この奥は親方家族用のお風呂があり、漁夫達は銭湯あるいは以前は鰊釜を洗って五右衛門風呂式にして入浴したそうです。そういえば北海道開拓の村で青山漁場を見学していた時、置いてあった鰊釜を前に、年配の女性2人が、「懐かしいわね~、私たちが子どもの頃は、使わなくなった鰊釜でお風呂に入ったのよ」と聞かされ、驚いたものですが、どうやら漁夫達もそうしていたようです。
さて、ここからは、親方の生活です。正直、小平町の旧花田家番屋を見た後では、これでも地味に感じます。
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客間。シンプルですが、清潔で上品な感じがあります。
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欄間などの造作に凝るのも、鰊御殿の特徴の一つです。
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  (親方の散髪椅子)
「親方が床屋の職人を自宅に呼び、散髪に使用した親方専用椅子」と説明書きがありました。う~ん、さすが。。。
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蓄音機はともかく、映写機まで持ってたとは驚きです。
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レコードケース。これは何だかお洒落なデザインですね。
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ちなみにこれ、ラジオです。
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昭和8年のNHKラジオの番組表。「経済市況・時報」の欄に、3月15日~4月30日までは「鰊ニュース」があります。春告魚らしく、漁期は鰊の話題を毎日取り上げていたということですね。
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被雇契約書。雇われた方の側から書かれているようです。
「金61円のうち56円を前借金にて正に受取申候」とあるように、一部(この場合はほとんど)を前借りする形態のようです。小樽にある小樽市鰊御殿は、余市のちかく、積丹にあったものを移設したものですが、あの御殿を建てた網元はもとヤン衆(漁夫)出身者なので、そのストーリーからは下克上を夢見る野心溢れる漁夫像が浮かびますが、小平町ニシン御殿に見られるヤン衆の落書き(あと何日で帰郷できると書かれている落書きから建築年台が推定された。)やこうした前借金の契約書を見ると、季節労働者、出稼ぎとしての被雇用者の面が偲ばれます。
それにしてもこの様式、大正時代のものを手書きで昭和3年と書き換えて使っています。「大正十」までは印刷してあるので、大正十年代に印刷したものであることが分かります。昭和のはじめ頃は家にある在庫を使っていたのかは分かりませんが、いずれにしても、北海道の漁村で大正年間にこんな契約書があったなんて、鰊御殿の雇用関係は驚くほど近代的であったことが分かります。
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漁夫達へのルール。
第一条 火の元を要心(ようじん)すること。
第二条 漁期中(は)街路通行人(に)悪業(を)堅く禁ず。
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今日は下図の①主屋だけで終わってしまいました。。。
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   2008.9.24 余市町にて
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by bjiman | 2010-10-02 01:51 | 北海道日記(余市町) | Comments(4)

旧余市・福原漁場①~ニシン漁の歴史を体感~

「鯡」と書いて「ニシン」と読む。
「鰊(ニシン)は魚に非(あら)ず。米(コメ)である。」に代表されるニシン漁に纏わる歴史は、北海道の開拓史を語る上で欠かせない出来事だと思います。江戸時代に始まり、明治時代から大正年間にかけて、そして昭和30年頃に忽然と途絶えるまで、北海道にとってニシン漁は、コメに変わって北海道経済を支えた「メシのタネ」でした。
ニシンは春告魚(はるつげうお)と呼ばれるように、春に産卵のため北海道沿岸に現れ、大量のニシンがいっせいに訪れる様は、「群来(くき)」と呼ばれ、最盛期には100万t近くの漁獲高がありました。ニシンは、そのまま食べるのではなくほとんどは煮沸して農作物用の肥料として加工され、北前船で全国各地で届けられ、その売却代金で米や大豆などを購入するという形で発展し、ニシン漁で財を成した網元は「ニシン御殿」を建てました。
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ここ、旧余市・福原漁場は、そんなかつてのニシン漁を体感できる施設です。
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ここに限らず、小樽・留萌・江差など道内各地にニシン御殿は見られ、建物の豪華さなら北海道開拓の村にある「青山漁場」、スケールの大きさでは、小平町の「旧花田家番屋」
、展示内容の充実ぶりでは小樽市の「小樽市鰊御殿」などがあります。しかし、ここ福原漁場には、関連施設など漁場全体が敷地を含め、ほぼそのままの姿で残っているという貴重な特徴があります。
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  というところで、今日は時間がなくなってしまいました。
  続きはまた明日。
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  2008.9.24 余市町にて
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by bjiman | 2010-10-01 01:31 | 北海道日記(余市町) | Comments(4)

ニッカウヰスキー(余市蒸留所)

国産ウィスキーの父、竹鶴政孝さんは、1934年にニッカウヰスキー(旧大日本果汁株式会社、日果=ニッカ)を創業する際、その場所を、自らがウィスキー造りを学んだスコットランドに最も環境が似ているという理由で北海道の余市(よいち)町に選びました。
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地縁もない中で、ウィスキー造りに掛ける情熱が、きっとこの会社をここ余市で大きくしたのだと思います。今ではこの余市蒸留所は、国の登録有形文化財に指定されています。
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     この蒸留所内に、ひっそりと創業社長の旧竹鶴邸があります。
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竹鶴政孝さんは、スコットランドに留学した際にリタさんことジェシー・ロベルタ・カウンさんと出会い、日本で本当のウィスキーを作るという夢を持って結婚し、2人で日本へ戻ってきました。大正時代のことです。
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帰国した竹鶴さんは、サントリー(旧寿屋)に期間限定で入社、同社の山崎工場を設立。その後、退社・独立して、ここ余市町に蒸留所を建て、2人の家を構えたのです。
家の中には、素敵なステンドグラスが埋め込まれていました。
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洋館ながらも、内装を見ると障子が入れてあったりして、和モダンな感じになっています。
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   玄関のドームからの眺め。こんな風に出社するなんて、お洒落ですね。
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ここ余市蒸留所では、ウィスキーの製造過程の見学はもちろん、各種ファクトリーツアーも充実しており、旧竹鶴邸では、竹鶴氏ご夫妻の出会いなども知ることができます。こういう大正世代の立派な方について勉強すると、最近、こういう日本人がいないなぁと痛感させられます。

私も、竹鶴氏に敬意を表して、1本所有しております。たまには、ウィスキーのグラスでもかたむけつつ、壮大な夢に浸ってみるのもよいかもしれませんね。















 2008.7.27 余市町にて
 PENTAX K10D
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by bjiman | 2010-08-04 01:40 | 北海道日記(余市町) | Comments(4)