ニッサン・スカイラインについて(ジャーナリズムに意見しておきたいこと)⑥

スカイラインについての最終回(の前半)。最後にまとめておきたいと思います。
私は、年末にみた自動車ジャーナリストの、スカイラインV35型についての批判記事。

「これまでスカイラインというクルマが作り続けてきた思いや伝統を微塵も感じさせない」
「このでぶなクルマに、スカイラインと名づけることに反対意見はなかったのだろうか。」
「いや、あったに違いない、ゴーン勢力に押し切られてしまったのだろう。」

という部分、特に、最後の「ゴーン勢力に押し切られた、、、」云々の評論に強い違和感を持っていました。
仕事をする上で、社会人として、私はこのような被害者意識を持ちたくないからです。

実際そうなんでしょうか。まずそれを聞きに行くべきだし、昨今、再三取りあげているように、日産のライバルのトヨタの場合は、エンジニア自らが、Webをはじめ、雑誌などにも登場し、インタビューに応え、または自ら投稿し、相当突っ込んだ情報発信をするようになっています。逆に言えば、そうでもしなければ、きちんと情報発信ができないからだろうとも思います。
前回、昨年にテレビで見た、アナウンサーの人が個人的な報道をされて、自分で説明しても、「何も信じてもらえない」と話していたことが印象的だったと書きましたが、クルマのエンジニアにとってもその辛さは同じものがあるだろうと。特に、スカイラインのような人気車については、メーカーも、エンジニアも情報発信をしているので、今回改めて、これだけ豊富な情報発信をしているのに、なぜ、冒頭のようなことを自動車ジャーナリズムが書くのか違和感がぬぐえません。まさに、何を言っても信じてもらえないということの辛さだろうと思います。

では、V35以降の、V6スカイラインは、スカイラインというクルマの伝統を微塵も感じさせないものなのか、私なりに逆の意見の立場から説明してみたいと思います。
まず、スカイラインの始まりから、V35にチェンジするまでの、セールの経過をもう一度グラフで見てみます。
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スカイラインは、2代目のS54Bの時、初代スカGが、第2回日本グランプリで1周だけポルシェの前を走って、普通のセダンでありながら速い!というところが「羊の皮を被った狼」と称されて「スカイライン伝説」が生まれ、プリンス自動車を日産が合併して初のスカGとなった「ハコスカ」こと、GC10のレース仕様である初代GT-Rが、4ドアGT-R&2ドアGT-Rで、ツーリングカーレース49連勝を誇ったところでブランドが確立したといってもいいでしょう。
でも、ここからが肝心ですが、スカイラインが最もセールスを伸ばした時期、それは「愛のスカイライン」ケンメリの時とそれに引き続くジャパンの時だということです。
ハコスカの時も「愛のスカイライン」と呼んでいましたが、ケンメリ時代、バズの素敵な曲「愛と風のように」の繊細なヴォーカルな時代に乗せて、明らかにアメリカを感じさせる「ケンとメリー」のカップルが日本国中を旅するというテーマのCMは社会現象とまで言われるようになりました。私も美瑛にあるケンとメリーの木を見に行きました。日産のホームページNISSAN LEGENDSの中で、桜井さんの部下でR32スカイラインを指揮した伊藤修令さんが、「ケンメリ時代から、走りをセールスポイントにした「真面目な」クルマから、ファッショナブルな路線へ転換した。若者が求めていたデートカーの要素を持っていた。」「そういう方向性を打ち出したのは彼(桜井さん)でした。」と証言しています。また、桜井さんを評して、「理屈ばかりのガチガチのエンジニアだったかといえばそうでもない。世の中の動向や流行にも敏感な人」だったとも指摘しています。日産自動車に吸収されたプリンス自動車にとって、系列ディーラーである「日産プリンス自動車販売」の貴重なエース車種であるスカイラインの売れ行きは、開発エンジニアだった桜井さんにとっては非常に重要だったことは想像に難くありません。ハコスカの時代の49連勝の最中に、ファッショナブルな路線に転換する、、、それは日産自動車の責任者の一人としての「マーケティング」(どうすれば売れるのか、、、という決断)だったのだと思います。そしてそれは大成功を収めるんです。ケンメリとジャパンの時代、それはどこから見ても、アメリカンなデザインのやや大柄なセダンで、若い2人が中心でありながら、後部座席のスペースも確保したことがアピールされたCMになっています。ケンメリとジャパンの9年弱でスカイラインは約130万台売り上げる人気車種になる訳ですが、この間、スカイラインはレースに出場するようなことはなかったんです。むしろ、そんな強さよりも、若者が求める「優しさ」がアピールされた時代でした。
1970年代と現在では、「若者(青年)」の重みが違います。戦争で中堅層が薄くなっていた日本では、70年代、若者に対する期待が大きかったと思います。戦前と全く文化が変わり、アメリカ文化が入ってくる中で、若者には、経済を牽引する力だけでなく、クルマの活用といった文化、ファッション面でもリーダとして発信力も期待されたと思うんです。人口構成という面で見ると、ケンメリの70年代の頃、20歳~39歳の青年層が人口全体に占める比率は35%(2.9人に1人)。これが2010年には25%(4人に1人)に低下、一方、一方、65歳以上の高齢者の比率は、2010年が17.4%にも及ぶのに対し、70年は7%に過ぎません。要するに、人口構成全体が若年寄りで、かつ2.9人に1人は青年なので、自ずと若い人の購入の選択(の好み)は重要だったということです。

また、70年の乗用車の普及率は22%に過ぎず、ほとんどの人が初めて持つクルマだったということも影響があると思います。若い人が多く、高齢者が少なければ、デートカーでもいいでしょう。2ドアでもいいでしょう。でも、クルマの乗車定員、求められるゆとりは年代を追って増えてきて、同じクルマであっても段々ゆとりが求められるようになります。
ジャパンの頃、段々セールスが落ちてきて、日産の開発陣には、レースに出るスカイラインが見たいという声が聞かれるようになってきたといいます。
桜井さんを初めとするスカイライン開発チームには、スカイライン伝説を起こした「勝利の方程式」があったと思います。それは、
①レースに出て、圧倒的に勝つこと
②6気筒DOHC4バルブエンジン、S20のイメージを持つこと
③①を実現するための、2ドアスカイライン「GT-R」を持つこと。(ショートホイールベース化)
この①~③を段々に実現したのが、R32を頂点とする、型番にRが付く、「Rシリーズ世代」のスカイラインだったと思います。
しかし、R世代は、この「スカイライン勝利の方程式」を実現しましたが、販売面では、ジャパンに始まった下降線を上昇させることはなかったんです。

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スカイライン開発陣は、非常にスカイライン伝説に対して慎重だったと思うんです。
R30スカイライン、いわゆるニューマンの時代、スカイラインはレースに復帰します。この時引っさげてきたのが、待望のDOHC4バルブエンジン「FJ20E」でした。
しかし、このエンジンは4気筒であったために、ハコスカGT-Rのエンジン「S20型」のように6気筒24バルブではなく、4気筒16バルブエンジンでした。このエンジンはシルビアにも搭載されていましたから、ちょっとクラス的には格下なんですよね。ですから、GT-Rの名を許さず、桜井さんは、「RS=レン・シュポルト」(Renn Sport)とする訳です。RSは、スカイラインとは因縁深い、ポルシェのRSから持ってきたんでしょう。

スカイラインRS 西部警察バージョン @小樽  SIGMA DP1 Merrill
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スカイラインの開発者の思い、、、なんてそんな単純なことじゃないと思いますが、スカイラインともなると、さすがに日産のホームページに非常にたくさんの情報が出ていて、これを読んでいくと、自ずと、V35に繋がっていくイメージが理解できると思いました。次回は最終回、その辺りを振り返りたいと思います。

# by bjiman | 2017-03-07 01:59 | CAR | Comments(0)

ニッサン・スカイラインについて(ジャーナリズムに意見しておきたいこと)⑤

ちょっと旧聞になりますが、ある女子アナウンサーが、自分のプライベートな事柄について報道をされたとき、「何を言っても信じてもらえない」と話していた姿が印象に残りました。私は彼女に同情している訳でも、事情を知っている訳でもないのですが、どう説明しても説明のとおりには報道してもらえず、勘ぐられたことばかり書かれるということがいかに辛いことか、私はクルマジャーナリストの方に言いたいんです。

「設計者に、聞かずに書く」
「決めつける」

ということが、どれほど問題なのか。
スカイラインV35に対して、あるクルマジャーナリストが書いていた言葉

「これまでスカイラインというクルマが作り続けてきた思いや伝統を微塵も感じさせない」
「このでぶなクルマに、スカイラインと名づけることに反対意見はなかったのだろうか。」
「いや、あったに違いない、ゴーン勢力に押し切られてしまったのだろう。」

これに対して、私がこうして強く意見しているのは、当たり前ですが、ジャーナリスト個人に言っているのではありません。
設計者に聞かずに決めつけ、客観性を欠いた議論をすることが、いかに事実を歪曲させてしまうのかということに強い問題意識を持っているからです。
スカイラインV35がデブだという。
ではV35スカイラインがデブなのか、検証してみましょう。
国内の同クラスということで、トヨタのマークⅡ、欧州車では、BMWの3シリーズ、5シリーズと経年で比較してみます。
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この表を見ていただければ一目瞭然であるとおり、スカイラインV35は、ライバルと比べても、歴年のモデルと比べても、決してデブなどではありません。
1980年代、国産車は国内規格の5ナンバー(全長4.7m×全幅1.7m以下)の規制(3ナンバーになると税金が高くなる)の影響で、欧州車等のライバルから保護されつつ、その影響で、スタイルが細長いものになっていました。自動車ジャーナリストからは、「異形だ」「スタイルのバランスが悪い」とさんざん揶揄されていたんです。
それが90年代の税制改正で開放されてからは、段々修正されてきています。特に、この表で見ると分かるとおり、トヨタ・マークⅡは、3ナンバーになったX90型のサイズが、同時代のBMW5シリーズとほぼ同サイズになっていることが分かると思います。こうやって、国産車は世界の水準に並んできたんです。(そしてその後、また5シリーズが更に大きくなったのに、マークⅡはついていかなった。そして、国内専用のマークXという風にコンセプトを練り直すことになるのですが。)
マークⅡのX90型から比べれば、2001年登場のスカイラインV35型の横幅が、1993年当時のマークⅡX90型と同じ1,750mmという設定は、少しもデブなどではなく、むしろライバルから見たら、これでもまだ細長いんです。この時代、既にスカイラインよりも一回り小さいBMW3シリーズ(E90型)の横幅は、1815mmになっているんですよ。横幅が大きくなることは、道幅の狭い我が国の中においては、使い勝手に劣ってくることは確かですが、車内のゆとりが確保でき、側突の安全性を高めることにもなります。なぜ、ライバルと比べてスリムなスカイラインV35型が、これでもデブデブだと言われなければならないのでしょうか。おかしいでしょう。

SIGMA sd Quattro+SIGMA 150-600mmF5-6.3DC OS HSM
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なぜBMWと比較するかと言えば、スカイラインが好きな方なら皆さんご存じのように、特にハコスカ以降のスカイラインが、BMWから、特にマルニ(ノイエ・クラッセ)以降のモデルに強く影響されていることは明らかで、フロント:マクファーソンストラット、リア:セミトレIRSの足回り、直列4気筒ないし6気筒+FRのスポーツセダンというコンセプト、スカイラインの1800ccグレードに用いられたTI(ツーリングインターナショナルと呼んでいた)というグレード名、、、これはマルニ時代のBMWの2002ti をイメージしていると思います。ついでに書くと、ツーリングインターナショナルという訳は、BMWよりも前に「TI」というグレードを用いた本家・アルファロメオのジュリアTI(国際ツーリングカーレース・「Turismo Internazionale」の略)をそのまま使っているのです。この辺りは桜井眞一郎さんを中心とするプリンス自動車時代からのスカイライン開発チームの好みなんだろうと思います。R30の時代には5ドアハッチバックのGTやディーゼルのGTだって出していますから、桜井さんはこうした欧州スタイルのスポーツセダンをスカイラインの中に翻訳していったんだろうと思います。TIの呼称はアルファが先達でも、ジュリアのサスはフロント:ダブルウイッシュボーンのより古典的かつ高級なものなので、ハコスカ以降のスカイラインが実際に参考にしていたのはBMWの方(マクファーソンストラット+セミトレ)だと思います。


そして、マルニ以降のBMWがコンパクトな3シリーズと、中型の5シリーズに分化していくのを横に見ながら、スカイラインは、上のサイズ表にあるとおり、「3と5の中間」のサイズに納めていくようになります。それは、スカイラインのポジションは、下にクラスが近似する看板車種のブルーバードがあったからでしょう。ブルーバードだってサニーじゃないんですから、サイズ的にはDセグメントとCの間くらいにはあるからです。
私の本音を言えば、910のようなFRのブルーバードがもし理想的に発展したなら、レクサスのISや、BMWの3に相当するものになって、スカイラインは、5のサイズでもとやかく言われることはなかったと思います。現行型のスカイラインV37型のサイズをBMWの3と5の間に挟んでみると、それが良く分かると思います。今でもこうしてスカイラインは、BMWの3と5の間にキレイに収まっています。
こういう数字のファクトを揚げて説明せずに、「デブだデブだ」と批判することは、単に適切ではないだけではなく、国際的な競争力を削ぐという点で問題なのです。
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私は、V35のV6になってからスカイラインが欲しいと思うようになりました。これは初めてのことだったんです。
しばらくそんな思いが頭に残って、V36型にスイッチされたときにはディーラーに行ってカタログをもらってきたくらいです。(まだ持っています。下にあるのは当時一緒に検討していたブルーバードシルフィのカタログ)

SIGMA DP1 Merrill
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、、、ということで、次回は、スカイラインが直6からV6に変わった辺りの自分なりの意見を書いてみたいと思います。

# by bjiman | 2017-03-04 03:54 | CAR | Comments(0)

ニッサン・スカイラインについて(ジャーナリズムに意見しておきたいこと)④

1966年、プリンス自動車が日産自動車に吸収されるような形で合併したことは、スカイラインのその後のブランド形成に少なくない影響があったと思います。
なんとなれば、当時の日産自動車のエースといえば、ダットサン・ブルーバード。誰もが知るこの国産黎明期からのセダンは、合併よりも前の1965年には、ブルーバードの「記号」とも言える「SSS」グレードを出していました。SSS=SuperSportsSedan、このコンセプトは、少なからずスカイラインと被るところがあります。まして、SSSは1600cc、スカイラインは1500ccだったのですから。クラスも性格も、すっかり被ってしまっています。

ダットサンブルーバード410SSS  (SIGMA DP1 Merrill)
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栄光の「SSS」エンブレム。思えばニッサンには、継承すべきレジェンドがたくさんあったんだと思うんです。この410は、尻下がりのスタイルが受け入れられず、ライバルのコロナにリードを許したクルマですが、ピニンファリーナデザインのスタイルは、今見てもちょっとアルファ的な、キラリと光るところがあります。
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そして日産では、プリンス自動車を合併した後の1967年、満を持してというか、ブルーバードの決定版となる510型を出すわけです。
510型は、ピニンファリーナのイタリアンスタイルから、社内デザイナーのデザインという直線基調の「スーパーソニックライン」を備え、今見てもBMW的な実に端正なスタイル。「スポーツセダン」の雰囲気を纏っています。

ブルーバード510型(67年~)
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このクルマは、1600ccエンジンを持つスポーツセダンで、サスペンションは前ストラット、後トレーリングアームによる独立式という贅沢な4輪独立式サスペンションを持ち、それは同時代のハコスカと形式的には類似のものでした。性格的にも、SSS=Super Sports Sedan の呼称はスカイラインの性格とも類似します。ブルーバードはブルーバードで、次代の610シリーズ時代に、ホイールベースを延長して2000ccエンジンを突っ込むというまるでスカイラインと同じ手法で「2000GTシリーズ」を出すことになります。これでは身内に後ろから蹴飛ばされたようなもので、どっちの2000GTがいいんだとなるでしょう。

(510ブルの精悍なフロントフェイスに、1800ccのSSSエンブレムが輝いていました。)
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また、ニッサンは、プリンスとの合併が決まる前から、ブルーバードの上級者にあたる「ローレル」を開発していました。ローレルは、当時では販売上大きなウェイトがあった商用バン(4ナンバー車)を作らずに、オーナーカーに徹するというハイオーナーカーの嚆矢として開発されていましたが、途中でクラスやキャラクターが被るスカイラインとの関係が考慮され、プリンス自動車の村山工場で生産し、シャシーはエンジンはスカイラインと共用するということになったんです。でもこれは、スカイラインにとっては単に似たようなクルマが乱立するだけで、いいことだったとは言えないと思います。
例えば、この初代ローレル2drHT。あのハコスカ・GC10型とシャシーが共通のクルマですが、性格的にスカイラインと使い分けるほどのキャラクターの違いがある訳でもありません。

初代ローレル2000GX
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しかも、開発エンジニアも桜井眞一郎さんが行うことになり、基本的に共同開発ということになりましたから、どうしたって性格的に似てくる。あえて言えば、この後のシリーズも含めて、ややエレガント方向に振っているということになり、個人的には、C31型など同年代のスカイラインよりは私は好きな車が多いのですが、スカイライン=スポーティ、ローレル=エレガント、という風に振り分けるほどにはキャラクターの違いが徹底された訳ではなく、かといって、スカイラインはやっぱり走りということで普通のセダンならローレルがあるからとスパルタンな方向に振るしかなくなるという袋小路になっていったように思うんです。
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つまり、こうした同クラスのいずれも「スポーティ」な2000ccクラスのFRセダンに囲まれて、スカイラインは、最初の「高級できれいな4ドアセダン」というプリンス・スカイラインの原点を失っていったんではないのか、そう思ったんです。だって、プリンス・スカイラインがスカイライン伝説を作ったとき、スカイラインがなんて呼ばれたか。有名なニックネームがありますよね。それは、「羊の皮を被った狼」。
普通の4ドアセダンでありながら、強力なエンジンを積むスポーティなセダン。高級な。それがスカイラインのそもそものキャラクターなんだと思うんです。
実際、設計者の桜井眞一郎さんは、スカイラインの40周年の際、自身が代表を務めたオーテックジャパンから、R32の4ドアGT-Rを出していることからも、スカイラインの原点は4ドアセダンだとお考えになっていることが伺えます。

初代プリンス・スカイライン「GT」(S54GT-A)
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スカイラインは、プリンス時代、瀟洒な4ドアセダンで、高級車だった訳です。決して体育会系の2ドアの、狭い2drクーペだった訳ではありません。
スカイラインの伝説に思いをはせると、実は、「インフィニティになったスカイライン」は、原点に、あるべき場所に戻ったのではないでしょうか。
(次回に続きます。)


# by bjiman | 2017-03-01 05:00 | CAR | Comments(0)

ニッサン・スカイラインについて(ジャーナリズムに意見しておきたいこと)③

プリンス自動車は、1966年(昭和41年)に日産自動車と合併します。これは、1960年代に入り、日本にも本格的なモータリゼーション時代が訪れ、自動車生産が飛躍的に増大したことが背景にあります。何と言っても、1963年に100万代を超えた生産台数は、1967年には314.6万台、西ドイツを抜いて世界第2位にまでなるのですから、その伸張ぶりは世界経済に与える影響も大きく、主としてアメリカからの完成車輸入自由化が求められることとなりました。歴史は繰り返す、という訳ですが、当時の通産省は輸入自由化に伴うショックを緩和するため、国内自動車業界の体質強化を計画、シェア2位の日産と4位のプリンス自動車の合併を誘導しました。プリンス自動車は、高級車を手がけ、立川飛行機以来の高い技術力が持ち味でしたが、販売が弱く、資金力に弱みがあったため、合併は日産に吸収されるような形で、プリンス自動車という名前は消え、販売会社に日産プリンス自動車販売が設立されることで当時は名前を残しましたが、この合併は、プリンス自動車側の社員にとってはプライドを傷つけられるものであった筈です。結果論は誰にでも言えることですが、私は、この合併は、日産自動車の側から見れば、桜井眞一郎氏、伊藤修礼氏らスカイラインの伝統を保ちつづける名エンジニア達という人的資産と技術力、スカイラインというブランド資産を手に入れるメリットがあった一方で、プリンスのスカイラインと日産のローレル、プリンスのグロリアと日産のセドリックというクラスが被るクルマのブランドを確立する点ではデメリット(同じクラスのクルマがあってわかりにくい)もあったと思います。

スカイラインというクルマから見ると、日産との合併は、2代目S5型プリンス・スカイラインの時代でした。
1964年発売のプリンス・スカイライン(右)と、1967年発売の日産・スカイライン(左)
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スカイラインというと、1964年の第2回日本グランプリで、スカイライン伝説を生んだ2000ccのS54GT-B型(写真右のGT-A型はシングルキャブ版)だけではなく、標準車の1500cc車のレーシング版ももの凄く活躍した訳です。1300cc~1600ccクラスの部門で、プリンス・スカイライン1500は1位~8位を独占。このレースに出場していた徳大寺有恒さんの駆るトヨタ・ワークスのコロナより1周10秒も速かったというのですから、桜井眞一郎氏らのプリンス自動車エンジニア陣のプライドは相当高かったと思います。
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それが日産自動車に吸収合併され、67年にスカイラインをマイナーチェンジした際には、その発表は日産プリンス販売のディーラで行ったというのですから、さぞかし悔しかったでしょう。プリンス族はそこに集まるしかなかったのだから。

ニッサン・スカイラインになって、エンジンフードに「nissan」のロゴが入りました。
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でもフード先端の「P」のデザインのようなエンブレムはプリンス時代からそのままです。この辺りに、日産の配慮、プリンスのプライドが伺えます。
それにしても右側にも見えるプリンス・スカイラインの端正な4ドアセダンのスタイルの上品なこと。70年代のメルセデス・Sクラスに通じるものがあります。
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前述したように、日産とプリンスの合併は、セドリックとグロリア、ローレルとスカイラインという両者の主力車種の統合再編に繋がってしまいます。私は、この点が今から見れば日産がそれぞれのクルマのブランド構築という点では二重の負担になり、ブランドの持つ価値を活かしきれなかったと思う点が残念です。
例えば、この、プリンス・グロリアなどその典型です。
初代グロリアは、今上天皇陛下が皇太子(プリンス)の時代に、殿下のご成婚に因んだ「栄光=グロリア」の名で発売され、殿下ご自身もご愛用されたという「究極のブランド」品であった筈です。
2代目のこのモデルも、アメリカ車ばりの洒落たデザインをまとって、ラジエータグリルに輝く「Prince」の文字も誇らしく、いかにも高級車という雰囲気に溢れています。
(2代目・プリンス・グロリア)
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ラジエーターグリルに輝く「Prinnce」の金文字、センターにはPのエンブレム
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グロリアは、初代の時代から、リアアクスルに、戦前から欧州車が用い、70年代にはアルファロメオが採用していた高度な高級サスペンション、ド・ディオンアクスルを搭載していました。貨物車などに見られる丈夫なリーフリジッドがほとんどだった当時の日本では、これは異次元とも言える構造だった訳です。構造は複雑でも乗り心地が良いメリットがありました。
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そして、当時の日産・セドリックは、プリンスグロリアと比べると、落ち着きはあるものの、スタイルも同じアメリカ流とはいってもグロリアが瀟洒な感じに対してよく言えば重厚、悪く言えば少し保守的に過ぎるような印象もあります。リアサスペンションも、こちらはコンベンションナルなリーフリジッドで、プリンスから見ればやや旧いという感じがあったのではないでしょうか。
(日産・初代セドリック1900)
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そして、合併後の67年に登場した日産・グロリアは、プリンス時代に開発が始められたため、縦目の特徴あるロイヤルスタイル(プリンス自動車がデザインした御料車のデザインに因みます)はセドリックとは別ではあったものの、開発中の合併劇に伴ってセドリックとの部品共有化が進められ、初代からの特徴だった乗り心地重視のド・ディオンアクスルが廃止され、セドリックと共用のリーフリジッドになってしまった点は、個性的なブランドの差別化という点では明らかにマイナスでした。
そしてこれ以降、輝かしい伝統のあるグロリアは、セドリックの単なるバッジエンジニアリングの兄弟車になり、結局ブランド廃止になってしまいました。名前の由来を振り返ればお分かりいただけるように、日産は、この点ではかなり勿体ないことをしたと思います。

(3代目グロリア)
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そして何より、今回取り上げたスカイラインにとって、やっかいだったのは日産の主力車で、クラスが被るローレルや、日産の看板車種であるブルーバードとの性格を分けることだったと思います。この点については次回。

# by bjiman | 2017-02-28 05:00 | CAR | Comments(0)

ニッサン・スカイラインについて(ジャーナリズムに意見しておきたいこと)②

フランスの哲学者、ロラン・バルトは、「作者の死」の中で、「作品は様々なものが引用された織物のようなもの」で、「作者であっても何らかの影響を受けている」のであり、「作者は作品を支配することはできず、その解釈は、読者にゆだねられるもの」だと言いました。
なるほどこの説はクルマにもあてはまるところがあって、作者=設計者が、どんな意図をもって設計していたとしても、読者=消費者の共感を呼ばなければクルマは売れませんし、結局、クルマという商品の評価は読者=消費者の評価にゆだねられるものだからです。特にスカイラインのように、長い間多くのファンによって愛され、ブランドを築いてきたクルマが、「スカイラインらしい」のか「スカイラインらしくない」のかは、結局は、ユーザーの評価次第だと思います。
一方、ジャーナリズムが、設計者にその設計意図を聞くことなく、独自の解釈をすることは、また別だと思います。


(私は結構好きなデザイン。現行型ニッサン・スカイラインV37型)
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私が、ニッサンスカイラインについて書いたのも、年末に掲載されていたスカイラインV35型の論評に、
「これまでスカイラインというクルマが作り続けてきた思いや伝統を微塵も感じさせない」
「このでぶなクルマに、スカイラインと名づけることに反対意見はなかったのだろうか。」
「いや、あったに違いない、ゴーン勢力に押し切られてしまったのだろう。」
と書かれていたことがきっかけです。

取材もせず、一方的な立場で決めつける。

最近の自動車ジャーナリストにちらちら見えるこんな姿勢は、私は自動車評論が落ちてはいけないポイントだと思います。
自動車ジャーナリズムに限らず、ジャーナリズムに係わる人達は、「戦前の大本営発表になってはいけない」、ということは意識の根底にある筈です。
大本営発表の何がいけなかったのか。辞典を引くと、「戦況が悪化しているのに、優勢であるかのような虚偽の発表を繰り返した」とあります。
ミッドウェイ海戦の時、昭和17年6月に行われたこの海戦は、日本が虎の子の主戦航空母艦4艦を一気に失うという大被害を受け、敗戦につながるきっかけになったものであるにも係わらず、大本営はこの事実を秘匿し、「航空母艦1隻沈没、1隻大破」と改竄して発表しました。鉛筆を舐める分には4→1に過ぎない小さな数字の文字であっても、実態は大きく異なります。記者は現場にいって確かめることができず、発表をそのまま報道するしかなかった。正しい情報が伝えられず、その後の悲劇に繋がりました。だからいけないのでしょう。
バルトが指摘しなくたって、ユーザーは、作者の意図とは無関係に色んな解釈をします。「スカイラインらしい」とか「らしくない」とか。
自動車ジャーナリズムというプロの書き手の評論は、これと同じステージでは駄目なんです。個人の感想など聞いてない。実際にどうだったのか聞いてきて、識者の意見やデータを踏まえつつ、自分なりの解釈を説明する。その時に、はじめて評論としての価値が生まれるんだと思います。
大事なことは、「客観的な事実を伝える」ということだと思います。自動車ジャーナリズムには「聞く」という動作が必須だと思うのです。

○米国で成功したスカイラインの再編成
この表は、昨年、2016年の年間販売データ。米国での乗用車販売ランキングです。
昨年、米国の乗用車販売ランキングでは、一般の乗用車部門で、ニッサン・ティアナ(米国名アルティマ)が5位、プレミアムカー部門(レクサス、ベンツ、リンカーンなどのプレミアムブランド15社が発売する全ラインナップのランキング。表ではセダンのみ抜粋)でも、インフィニティ・Q50(日本名ニッサンスカイライン)がセダンでは5位にランクインしました。プレミアムカー全車の順位で見ても14位で、ライバルのレクサスとの比較ではGSよりもISよりも上に行っています。レクサスは、米国では何といってもESがセダンの初めの頃からの稼ぎ頭です。こういうことは日本のジャーナリズムではまず議論してくれません。
ティアナとスカイラインは、元はと言えば、プリンス自動車のスカイラインと、ニッサン自動車のローレルが、紆余曲折を経ながら変遷してきた後継車です。私は、レクサスの2016年結果を検証(笑)している時に偶然この事実を知り、迷走に迷走を重ねたニッサンのLクラスセダンの再編が、米国では「成功」と言ってもいいんじゃないかと感慨深い思いで見ていました。
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(米国乗用車部門で、1位と5位のトヨタ・カムリとニッサン・アルティマ(ティアナ)@ハワイにて)
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私が気になった自動車ジャーナリストは、スカイラインV35に対して、「これまでスカイラインというクルマが作り続けてきた思いや伝統を微塵も感じさせない」と書いていました。ではお聞きしたいのですが、スカイラインの伝統とは何でしょうか。

「プリンス」から始まったスカイライン
クルマ好きの方なら誰でもご存じのように、スカイラインはもともとはニッサンのクルマではなく、「プリンス自動車」という会社が作ったものです。プリンス自動車は、戦前は、戦闘機の名機と言われる「隼」を設計した立川飛行機のエンジニア達が立ち上げた自動車メーカで、「プリンス自動車」の社名は、1952年(昭和27年)の今上天皇の立太子礼に因みます。

(スカイライン伝説を作った、初代スカイラインGT(写真はシングルキャブのS54A型)と、そのグリルにカッコ良くあしらわれた、プリンス自動車の「P」) @昭和記念公園 SIGMA DP1 Merrill
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初代スカイラインは、今上天皇の皇太子殿下時代の愛車だったことでも有名です。2014年に亡くなられた自動車評論家の徳大寺さんは、この初代スカイラインを運転している時の殿下と路上ですれ違ったことがあると著書で何度か触れています。そしてスカイラインは、1958年(昭和33年)10月に、プリンス・スカイライン1900としてモーターショーで発表されたモデルが、翌年の1959年に「プリンス・グロリア」として発売されますが、グロリア(栄光・光栄)という車名は、この年に皇太子殿下がご成婚されたことに因みます。このモデルも殿下に納入されたとのことで、グロリアやスカイライン、特にスカイラインは、プリンス自動車にとって大切な名前として扱われていきます。

(プリンス・グロリア。スカイライン2000GTには、このグロリア用の6気筒エンジンが移入された。)
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「スカイライン伝説」は、1964年に開催された第2回日本グランプリから始まったということは前回書いた通りです。これはニッサン自身がそのように説明しています。
そのスカイラインの基礎をなしたモデルは、1963年11月に登場し、後で、上の写真の初代GTのベース車となる二代目プリンス・スカイライン1500でしょう。

プリンス・スカイライン1500(S5型) 1963年~ @昭和記念公園 SIGMA DP1 Merrill
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プリンス自動車は、メーカーとしては後発だったので、ニッチな高級車マーケットをターゲットしていました。プリンス・グロリア(後のニッサン・グロリア)初代スカイラインのバリエーションのような形でデビューすることになりますが、スカイライン2代目のS5型は、グロリアとは分けられ、日本にもモータリゼーションの波が来て、一般の消費者にクルマが売れ始めた時代であった1963年末のデビューなので、プリンス自動車としては小型で、1500cc車として設計されたのです。

(高級感のあるスカイライン1500のグリルとPをあしらったエンブレム)
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1964年の第2回日本グランプリの開催前に、トヨタ・ワークスドライバーの式場荘吉さんが、ポルシェ904を個人輸入して出場してくるというニュースを前に、プリンス開発陣は、これに対抗するために、レースカーを仕立てます。レースに出場するためには100台生産車を生産している必要がありましたから、プリンス開発陣は急ピッチでこれを進める必要があり、スカイライン1500のエンジンルーム、ホイールベースを20cm延長してグロリア用の2000ccエンジンを突っ込むという、言葉は悪いですが少し安直な方法がと取られました。この開発を指揮したプリンス自動車のエンジニアが、後で有名になる桜井眞一郎氏で、今日まで続く、「スカイラインGT」の誕生のエピソードです。写真で比較していただくとわかりやすいと思いますが、20cm長いフロント部分が分かると思います。
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こちらが、1500ccの標準車。エンジン部分が短い。
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だから、最初、スカイラインというクルマは、1500ccクラスのクルマとしてバランスするように設計されたのに、2000GTで大成功を収めてしまった。しかも、ニッサンと合併してからの「初代スカイラインGT-R」では、今度はツーリングカーレースでの戦闘力を高めるために、ホイールベースを切り詰めて2ドアセダンにしてしまった。
フロントは直列6気筒エンジンで長く、後ろは、2ドアでショートホイールベースで切り詰めたのでは、トレードオフとなるのはキャビンスペースです。
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このように、スカイラインの歴史は、高級4ドアセダンとして始まり、伝説となったレースでの戦闘力のために、ショートホイールベースに→キャビンスペースが不足するのでボディを拡大→売れなくなり、またボディをショートに、の繰り返しになります。これは、最初のスカイライン伝説の時に4ドアセダンでありながら、本格的なスポーツカーのポルシェを抜いた、まさにあの瞬間に決まったスカイラインの宿命だったのかなと思います。
続きは次回。ニッサンとプリンスの合併を絡めて、現在のスカイラインの再編成を好ましく思ったというところにつなげていきます。

# by bjiman | 2017-02-20 06:00 | CAR | Comments(0)

ニッサン・スカイラインについて(ジャーナリズムに意見しておきたいこと)

既に時間が経ってしまいましたが、年末、V6になった初めてのスカイライン、V35型に対する批判記事が目に留まりました。著名な女性の自動車ジャーナリストのもので、V35型スカイラインは「でぶ」で「スカイラインの名前の伝統や思いを微塵も感じさせない」というのです。このような記事に対していちいち反論を書くことは意味がないと思っているのですが、この記事には日頃私が感じている、ジャーナリズムが落ちてはいけないと思うことがいくつかあります。そのことを書くのにちょうどいい記事でしたので、これを題材にして書いてみたいと思います。
私が免許を取った当時、スカイラインは形式名の最初にRが来る最初の型、R3Oでした。この型は、CMのキャラクター(ポール・ニューマンさん)から「ニューマン・スカイライン」あるいは、FJ20エンジンを搭載したRSのフロントフェイスを形容した「鉄仮面」と呼ばれたモデル。小樽の石原裕次郎記念館に行った時に、RSの西部警察バージョンが展示されていたので思わず写真を撮りました。

スカイラインRS (DR30) 西部警察バージョン (SIGMA DP1 Merrill)
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スカイラインの象徴といえば、「GT」の名前、直列6気筒2,000ccエンジン、そして、サーフィンラインとか、4灯丸目のフェラーリのようなリアテールランプ、何より「GT-R」というレースを感じさせるボディタイプ、でしょうか。
でも、このR30タイプにしても、イメージリーダーは直列6気筒の「GT」ではなく、DOHCエンジンを復活させたFJ20Eを搭載した「RS」の方でしたし、鉄仮面スカイラインにはサーフィンラインもありません。スカイラインという名前が想起させるイメージは、「レース」という共通のものがあるものの、ディティールは当然時代の事情、ニーズに合わせて変化しているのです。
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私が免許を取った当時のスカイラインは上記のRSの時代でしたが、現役で路上を走っていたスカイラインはまだまだ「ジャパン」も多かったので、私はスカイラインというとジャパンのイメージが強いのですが、もちろん「教科書」(専門書)などでお勉強したスカイラインは、60年代のプリンス・スカイラインS54Bの輝かしいレース史です。4気筒1,500ccが標準だったプリンス・スカイラインのエンジンルームにプリンス・グロリア用の6気筒2,000ccエンジン(当時はまだOHC)を突っ込むためにホイールベースとフロント部分を延長するという手法は何とも荒々しささえ感じさせるチャレンジングであり、プリンス自動車のエンジニア・桜井眞一郎氏を有名にしました。ライブで体感できない60年代の話でも、本を読みながら興奮したものです。そして、スカイラインのレーシィなイメージとは、そのプリンス自動車を吸収合併したニッサン自身が作成した以下ビデオに語られているとおり、1964年に開催された第2回日本グランプリにおけるスカイラインGT対ポルシェ904の闘いによって形成されたものというのは、我々世代のクルマ好きなら誰でも知っていることだと思います。本格的ミッドシップスポーツカーのポルシェ904と所詮は乗用車ベースのスカイラインGTが闘っても勝負は分かっていること。スカイラインをドライブした生沢徹さんとポルシェ904をドライブした式場壮吉さんは、後に著名な自動車評論家となる徳大寺有恒さんたちも含めて若い頃からの友達同士で、生沢さんが事前に冗談で、1周でもいいから前を走らせてくれと言っていたこと、実際にレースで偶然、式場ポルシェが遅い前のクルマに引っかかったところを生沢スカイラインが前に出たので、その時に、式場さんが、そういうえば1周だけでも、、、の話を思い出して1周だけ様子を見たこと、、、これはご本人同士が認める、偶然が演出したできごとですが、判官贔屓もあって、圧倒的に不利なシチュエーションでありながら1周だけ前に出て大観衆の前を先頭で走ったスカイラインは熱狂を呼んで名を上げたのです。翌日のスポーツ新聞の見出しには「泣くなスカイライン」という文字が躍ったとか。時代の雰囲気を感じさせます。

そしてスカイラインの歴史の中でも燦然と輝くのが、ニッサンとなってからの新型スカイライン、GC10型。とりわけDOHCエンジンのS20型を搭載した、初代GT-Rでしょう。4ドアで始まったGT-Rですが、ツーリングカーレースでの戦闘力を保つため、途中でホイールベースを短縮した2ドア仕様のGT-RにスイッチされたKPGC10は、最終的にツーリングカーレース50連勝という金字塔を打ち立て、スカイラインの中で最も有名な型だと思います。少なくとも私の中では。
スカイラインGT-R KPGC10型 @TOYOTA MEGAWEB (DP1 Merrill)
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リアタイヤハウスの周りにある上下のラインが、スカイラインならではの「サーフィンライン」
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しかしS2Oのような純粋にレーシングエンジンとして開発されたものをデチューンして搭載したGT-Rは当然高価であり、1969年で154万円という価格はサラリーマンにとっては高嶺の花。ですが、この50連勝の活躍が、スカイライン伝説を一層輝かせ、スカイラインの一般車の販売を押し上げていきます。スカイラインの歴代販売台数を見ると、スカイラインというクルマがどういうものだったのか、その一端が分かると思います。
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スカイラインは、2代S54Bの時代、第2回日本グランプリ(64年開催)で名を上げ、販売台数が11万台に一気に増加、3代GC10時代(68年~)、GT-Rのツーリングカーレース50連勝の金字塔で3倍の31万台、続くC110型、通称ケンメリと言われる、ケンとメリーの「愛のスカイライン」の時代('72年~)に歴代最高となる67万台を売り上げています。

ケンメリの時代、GT-Rは作られたものの、第一次オイルショックが1973年、狂乱物価と言われたのが1974年です。排出ガス規制の影響もあって、ケンメリGT-Rは197台しか作られず、レースにも出場しませんでした。
時代が省エネ時代に変わって、脚光を浴びたのは小型の省燃費車です。その代表格がホンダ・シビックでしょう。バズが「愛と風のように」でケンメリの愛のスカイラインを歌ってから4年経ち、それに変わって、当時の時代の寵児だった吉田拓郎が「僕の車」という曲の中で、「僕の車は待っている、ホンダシビック~」と歌ったのが76年。スカイラインはそういう空気感の中で歴代最高となる67万台を売り上げはしたものの、時代の雰囲気はすっかり変わっていったでしょう。スカイラインの販売台数が落ち始めるのが1977年発売のジャパンからというのは、この間の空気感の変遷とリンクしていると思います。私の敬愛する白洲次郎さんは、この頃、ホンダシビックや三菱ミラージュを愛用し、助手席に乗るというスタイルを取り、黒塗りの大型車の後部座席に乗る経営者達を皮肉っていました。そういう時代の雰囲気だったんだろうと思います。

その後、スカイラインは一定の支持がある人気車ではあったものの、結局R34でR型スカイライン、つまり直列6気筒のスカイラインが終わるまで一度も販売成績が上向いたことはありません。あの名車と言われるR32ですら、健闘したものの、トヨタ・マークⅡ3兄弟に端を発する「ハイソカーブーム」の流れの中で大型化した「セブンス」、それこそ当時「らしくない」と言われた「7代・都市工学スカイライン」の販売台数を上回ってはいないのです。要因はいろいろあるでしょうが、クルマは商品で、ユーザーの支持がなければ「ニーズが変わっている」と思うしかないこともあります。スカイラインの歴史はそれでなくても快適性のための大型化と贅肉をそそぎ落とすための小型化の繰り返しでもあり、ユーザーの年齢の高齢化でもあったと思うのです。続きは、次回。私はV35型スカイラインが気に入っていたという立場から、自動車ジャーナリズムが落ちてはいけないと思う視点について、具体的に書いてみたいと思います。

# by bjiman | 2017-02-12 13:00 | CAR | Comments(4)