DreamComeTrue! プロローグ(私のオーディオ史)

最近、スピーカーを買いました。それは、少年の頃から私が夢見ていたものでした。今回、偶然、かなり理想に近いものに出会うことが出来、入手することができました。そんな夢物語を書く前に、プロローグとして、少年時代のオーディオの夢を書いてみたいと思います。かなり私的な話です。
小学生の頃はBCLに夢中で、当時流行っていたナショナルのクーガとか、ソニーのスカイセンサーとかを電気店に行っては飽きずに眺めていた少年でした。でも天邪鬼的なところがあって、みんなが好きなクーガでもスカイセンサーでもない、東芝のTRY-Xの1500とか1600とかに何故か惹かれてしまい、トライX2000を愛機としていました。77年頃のヘタな写真が少し残っています。

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中学校の途中まではBCLもやっていたと思いますが、段々マセてくると、音楽が好きになってきました。小学生の頃から荒井由実とかオリビア・ニュートン・ジョンとかは好きでしたが、中学の頃は、尾崎亜美、大貫妙子、吉田美奈子さんに惹かれてきて、ラジオカセットが愛機になっていきました。その頃に使っていたのがSONYのICF1990MarkⅡです。
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その頃、ステレオ装置なんて自分では買えないので、自宅にあった古いサンヨーの4チャンネルステレオでレコードを聴くようになりましたが、4チャンネルのスピーカーのうち、特にリアスピーカーの貧弱さが不満でした。それで、そのスピーカーのバッフルを改造して、スピーカーユニットを自分で交換してみることにしたんです。それでCORAL FLAT-5II を入手して「自作のスピーカーシステム」を作ってみたんです。FLAT5Ⅱは廉価なユニットですが、当時の貧弱の4チャンネルスピーカーに付いていたユニットからすれば夢のようにカッコ良いユニットでした。これに満足した私はスピーカー工作の魅力にはまってしまいました。中学から高校に行く頃にはもうオーディオに夢中でした。
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といってもスピーカーユニットは高価ですので、もっぱら使えるのは中古品で、安いフルレンジを探して、長岡式バックロードホーンを作ったりしました。写真はもう高校時代末期のもので、偶然もの凄く安く入手したCOLALのプロ用ドライバーユニットをTweeter代わり(お金がないのでホーンは買えなかった)にしていて、フルレンジは、FOSTEXのFE203を使っていましたが、高校の文化祭の際に自分のFE203を外して高校に持ち込んでいたので、自宅のシステムは、バスレフエンクロージャーに入れていた同じFOSTEXの古いUP203をとりあえず付けておいた時のもの。
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高校時代にはスピーカーの「設計」に夢中になっていました。高価なユニットを買って作ることはできないので、もっぱら図面を書くだけというという趣味でしたが、書くだけなので、およそ買えないような38cmウーファーを使ったシステムとかアルテックにあったような複雑なホーンシステムを設計したりしていました。情報量だけはもの凄く吸収していましたので想像力だけはたくましかったのです。発売されていた各メーカーのスピーカーユニットのラインナップはほとんど全部頭に入っていましたが特に好きだったのが(ありきたりですが)JBLとALTECのユニットでした。その過程で、ジェームス・バロー・ランシング(James Bullough Lansing ) さんがとても好きになってしまいました。なぜなら彼の業績はもの凄いけれども、経営的には失敗続きで最後は今日の栄光を見ることなく自殺してしまうという悲劇のコントラストもありました。スピーカーを設計しているとき、もちろん好きなユニットのタイプというのがあって、軽量なコーン紙に強力な磁気回路を組み合わせて高能率のものが好みでした。こういうユニットはバックロードホーンとか大きなエンクロージャーに入れてやらないと低音が出ません。しかし、高能率な点がスピード感を感じさせて、当時の私にはそれが正義であるように感じられました。高校時代のオーディオ体験で、最もショックを受けたのが、ALTECのMODEL19(ALTEC A7のユニット構成のまま家庭用にアレンジしたモデル)のサウンドだということもありました。ALTECを代表する38cmユニット、 515には、彼の業績に敬意が払われて、彼が会社を去った後も、515ユニットには「ALTEC」のラベルではなく「Lansing」の彼のロゴが書かれたままでした。こういうところもにもアメリカの文化に惹かれたというのもあります。そしてALTECといえば同軸2WAYの604シリーズ 。ジェームスBランシングさんは、ALTECには自分が起業した会社の業績不振から引き取られた経緯もあって5年間しか在籍しませんでしたが、この間に、505ユニットと288ドライバーを使ったザ・ボイスオブ・ザ・シアターシステム を完成させ、世界中のスタジオで使われた「銀箱」 と呼ばれたモニタースピーカーを作り上げたんですから。彼が去った後のALTECは、ある意味彼の遺産を活かしながら経営していたようなものだと思うのです。そんな彼が、ALTECのような業務用ではなく、家庭用のスピーカーシステムを作りたいと起こした会社が、後にJ.B.L社となるジェームス・B・ランシングサウンド社なんです。この会社で彼が最初に添えたラインナップが、D130、D131、175DLHといったユニット群でした。このフルレンジのユニットとホーンドライバーの2WAYは、私の中で神格化された憧れとなりました。(次回に続きます。)

by bjiman | 2017-06-16 01:55 | 青春の詩
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