ニッサン・スカイラインについて(ジャーナリズムに意見しておきたいこと)⑥

スカイラインについての最終回(の前半)。最後にまとめておきたいと思います。
私は、年末にみた自動車ジャーナリストの、スカイラインV35型についての批判記事。

「これまでスカイラインというクルマが作り続けてきた思いや伝統を微塵も感じさせない」
「このでぶなクルマに、スカイラインと名づけることに反対意見はなかったのだろうか。」
「いや、あったに違いない、ゴーン勢力に押し切られてしまったのだろう。」

という部分、特に、最後の「ゴーン勢力に押し切られた、、、」云々の評論に強い違和感を持っていました。
仕事をする上で、社会人として、私はこのような被害者意識を持ちたくないからです。

実際そうなんでしょうか。まずそれを聞きに行くべきだし、昨今、再三取りあげているように、日産のライバルのトヨタの場合は、エンジニア自らが、Webをはじめ、雑誌などにも登場し、インタビューに応え、または自ら投稿し、相当突っ込んだ情報発信をするようになっています。逆に言えば、そうでもしなければ、きちんと情報発信ができないからだろうとも思います。
前回、昨年にテレビで見た、アナウンサーの人が個人的な報道をされて、自分で説明しても、「何も信じてもらえない」と話していたことが印象的だったと書きましたが、クルマのエンジニアにとってもその辛さは同じものがあるだろうと。特に、スカイラインのような人気車については、メーカーも、エンジニアも情報発信をしているので、今回改めて、これだけ豊富な情報発信をしているのに、なぜ、冒頭のようなことを自動車ジャーナリズムが書くのか違和感がぬぐえません。まさに、何を言っても信じてもらえないということの辛さだろうと思います。

では、V35以降の、V6スカイラインは、スカイラインというクルマの伝統を微塵も感じさせないものなのか、私なりに逆の意見の立場から説明してみたいと思います。
まず、スカイラインの始まりから、V35にチェンジするまでの、セールの経過をもう一度グラフで見てみます。
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スカイラインは、2代目のS54Bの時、初代スカGが、第2回日本グランプリで1周だけポルシェの前を走って、普通のセダンでありながら速い!というところが「羊の皮を被った狼」と称されて「スカイライン伝説」が生まれ、プリンス自動車を日産が合併して初のスカGとなった「ハコスカ」こと、GC10のレース仕様である初代GT-Rが、4ドアGT-R&2ドアGT-Rで、ツーリングカーレース49連勝を誇ったところでブランドが確立したといってもいいでしょう。
でも、ここからが肝心ですが、スカイラインが最もセールスを伸ばした時期、それは「愛のスカイライン」ケンメリの時とそれに引き続くジャパンの時だということです。
ハコスカの時も「愛のスカイライン」と呼んでいましたが、ケンメリ時代、バズの素敵な曲「愛と風のように」の繊細なヴォーカルな時代に乗せて、明らかにアメリカを感じさせる「ケンとメリー」のカップルが日本国中を旅するというテーマのCMは社会現象とまで言われるようになりました。私も美瑛にあるケンとメリーの木を見に行きました。日産のホームページNISSAN LEGENDSの中で、桜井さんの部下でR32スカイラインを指揮した伊藤修令さんが、「ケンメリ時代から、走りをセールスポイントにした「真面目な」クルマから、ファッショナブルな路線へ転換した。若者が求めていたデートカーの要素を持っていた。」「そういう方向性を打ち出したのは彼(桜井さん)でした。」と証言しています。また、桜井さんを評して、「理屈ばかりのガチガチのエンジニアだったかといえばそうでもない。世の中の動向や流行にも敏感な人」だったとも指摘しています。日産自動車に吸収されたプリンス自動車にとって、系列ディーラーである「日産プリンス自動車販売」の貴重なエース車種であるスカイラインの売れ行きは、開発エンジニアだった桜井さんにとっては非常に重要だったことは想像に難くありません。ハコスカの時代の49連勝の最中に、ファッショナブルな路線に転換する、、、それは日産自動車の責任者の一人としての「マーケティング」(どうすれば売れるのか、、、という決断)だったのだと思います。そしてそれは大成功を収めるんです。ケンメリとジャパンの時代、それはどこから見ても、アメリカンなデザインのやや大柄なセダンで、若い2人が中心でありながら、後部座席のスペースも確保したことがアピールされたCMになっています。ケンメリとジャパンの9年弱でスカイラインは約130万台売り上げる人気車種になる訳ですが、この間、スカイラインはレースに出場するようなことはなかったんです。むしろ、そんな強さよりも、若者が求める「優しさ」がアピールされた時代でした。
1970年代と現在では、「若者(青年)」の重みが違います。戦争で中堅層が薄くなっていた日本では、70年代、若者に対する期待が大きかったと思います。戦前と全く文化が変わり、アメリカ文化が入ってくる中で、若者には、経済を牽引する力だけでなく、クルマの活用といった文化、ファッション面でもリーダとして発信力も期待されたと思うんです。人口構成という面で見ると、ケンメリの70年代の頃、20歳~39歳の青年層が人口全体に占める比率は35%(2.9人に1人)。これが2010年には25%(4人に1人)に低下、一方、一方、65歳以上の高齢者の比率は、2010年が17.4%にも及ぶのに対し、70年は7%に過ぎません。要するに、人口構成全体が若年寄りで、かつ2.9人に1人は青年なので、自ずと若い人の購入の選択(の好み)は重要だったということです。

また、70年の乗用車の普及率は22%に過ぎず、ほとんどの人が初めて持つクルマだったということも影響があると思います。若い人が多く、高齢者が少なければ、デートカーでもいいでしょう。2ドアでもいいでしょう。でも、クルマの乗車定員、求められるゆとりは年代を追って増えてきて、同じクルマであっても段々ゆとりが求められるようになります。
ジャパンの頃、段々セールスが落ちてきて、日産の開発陣には、レースに出るスカイラインが見たいという声が聞かれるようになってきたといいます。
桜井さんを初めとするスカイライン開発チームには、スカイライン伝説を起こした「勝利の方程式」があったと思います。それは、
①レースに出て、圧倒的に勝つこと
②6気筒DOHC4バルブエンジン、S20のイメージを持つこと
③①を実現するための、2ドアスカイライン「GT-R」を持つこと。(ショートホイールベース化)
この①~③を段々に実現したのが、R32を頂点とする、型番にRが付く、「Rシリーズ世代」のスカイラインだったと思います。
しかし、R世代は、この「スカイライン勝利の方程式」を実現しましたが、販売面では、ジャパンに始まった下降線を上昇させることはなかったんです。

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スカイライン開発陣は、非常にスカイライン伝説に対して慎重だったと思うんです。
R30スカイライン、いわゆるニューマンの時代、スカイラインはレースに復帰します。この時引っさげてきたのが、待望のDOHC4バルブエンジン「FJ20E」でした。
しかし、このエンジンは4気筒であったために、ハコスカGT-Rのエンジン「S20型」のように6気筒24バルブではなく、4気筒16バルブエンジンでした。このエンジンはシルビアにも搭載されていましたから、ちょっとクラス的には格下なんですよね。ですから、GT-Rの名を許さず、桜井さんは、「RS=レン・シュポルト」(Renn Sport)とする訳です。RSは、スカイラインとは因縁深い、ポルシェのRSから持ってきたんでしょう。

スカイラインRS 西部警察バージョン @小樽  SIGMA DP1 Merrill
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スカイラインの開発者の思い、、、なんてそんな単純なことじゃないと思いますが、スカイラインともなると、さすがに日産のホームページに非常にたくさんの情報が出ていて、これを読んでいくと、自ずと、V35に繋がっていくイメージが理解できると思いました。次回は最終回、その辺りを振り返りたいと思います。

by bjiman | 2017-03-07 01:59 | CAR | Comments(0)
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